大石橋と小菅剣之助
大正六年五月、菰野村の福村直衛村長は、湯の山保勝会を結成。時の三重県知事宛に名勝旧跡保存のための申請をしました。保勝会が手がけた観光開発は 湯の山駅から温泉までの沿道に桜の苗木二千本の植樹や蒼滝への道や大石への散策路の修復、東京衛生試験所への温泉分析の依頼、そして菰野区が架けた木造大 石橋の架けかえの事業でした。
その後、昭和十一年になって四日市の実業家小菅剣之助氏は湯の山の景勝保存に関心を持ち、大石橋の木橋が腐敗して通行に危険だと聞き、コンクリート 造りの近代的な永久橋を架設することを発願しました。同年十二月、大石橋架設設計書を、時の黒沢隆吉町長に手渡し、全工事費を特別寄付すると申し出まし た。橋の規模は幅2.15m、長さ22mで、橋の姿は虹をかけたようにアーチを描き、左右の手すりは高欄式で、青銅製の擬宝珠のつく純日本風の設計でし た。工事は同十二年七月末に完成し、お盆の八月三日、寄付者の小菅剣之助夫婦を招き、山の関係者百五十名が参列、花火を打ち上げ盛大に完成祝賀会が行われ ました。
小菅剣之助氏は、慶応元年(1865)名古屋の笠寺に生まれ、家は尾張藩から苗字帯刀を許された豪農でした。祖父の手ほどきを受けて幼少から将棋を 好み、在京中に名人伊藤宗印の門下に入り、次第に上達し、大正十年に棋院から名人に推されました。将棋界を離れてからは家業の米殻、木材、株の取引に専 念、また営業の本拠を四日市に移して港湾の整備、周辺の工業開発に尽くされました。晩年は漢詩をつくり、書をたしなむ日々を過ごし、湯の山にたびたび遊び に訪れました。昭和十六年四月、山や谷に咲く山桜の美しさを「湯山看桜」と題して漢詩に詠み涙橋のたもとに一基の詩碑を建立。同十九年三月伊豆熱海の別荘 で波乱の生涯を閉じました。行年七十九歳。